山の穴
子どもの頃、裏八幡の山の上の家に住んでいたとき、草むらをかき分けて遊んでいた私に、父はよく声をかけた。「穴があるから気をつけろ。落ちるなよ」。穴、というのは藪に隠れた崖っぷちのことだ。落ちたらきっとすごく痛い。死んでしまうかもしれない。恐ろしかったが、同時に、穴はどこへつながっているのか好奇心も覚えた。
私が生まれる前、祖父母と両親が、鶴岡八幡宮の前を横切る横小路から山の上に引っ越して間もなくのこと。一帯の地主が土地の開発を始め、工事で出た土砂や岩を下に落とした。崖下の住人はたまったものではない。やがて、ある夫婦が苦情を言いに山を登ってきた。それが川喜多長政・かしこ夫妻だったという。川喜多邸、現在の川喜多映画記念館の裏山まで、山は続いているのだ。ということは、もし私が穴に落ちていたら、年に二回公開される別邸のあたりにころげ出てきたのだろうか。
残念ながら(残念か?)それはなさそうだ。地図で見れば川喜多邸の裏山と当時の私の家とは、尾根づたいに一〇〇メートルほど離れている。穴にはまった場合、落ちるのは扇ガ谷の浄光明寺付近のどこかになるだろうが、実際には途中で木に引っかかって、下までは落ちなかったに違いない。何はともあれ、落ちなくてよかったが。
(2017年5月・片岡 夏実)
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