パンを買いに

 「友達が極楽寺にパン屋を開いたから、よかったら行ってあげて」と知人に声をかけられたので行ってみた。二〇年近く前、九〇年代も終わりのことだ。
 稲村ヶ崎小学校の近くにある店は、ログハウス風の洒落た造りだった。ドイツ語の店名だったが、パンがドイツ風なのかはよくわからなかった。
 パンの味はよかったが、店を訪れたのは、この一回きりだ。家から歩いてすぐなのだが、そのころは経済的にも精神的にも、いいパンを求めるゆとりがなかった。五年ほどでそこは閉店し、すてきなログハウスは姿を消した。跡地は駐車場になった。鎌倉ではよくあることだ。
 ここ数年、新しいパン屋が続々と市内のあちこちに開店している。どこも流行っているようで何よりだ。そのうち何軒かのパンは食べる機会があった。どれもおいしかった。
 でも、消えてしまったあの店のパンだっておいしかったのだ。一〇年ほど早すぎたのだろうか。もちろん、店を閉めた理由が、繁盛していなかったからとは限らない。他の事情があったのかもしれない。もっといい立地が見つかって移転しただけかもしれない。それでも店の跡地の前を通りかかると、今あればもっと買いに行くのに、そして「あそこのパンおいしいよ」とみんなに宣伝するのにと、たまに思う。

(2016年3月・片岡 夏実)


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