谷向こうの家
梅や桜のような万人にとっての春とは別に、一人ひとりそれぞれの春がある。
子どもの頃住んでいた家は山の上にあった。西側が開け、谷間に横須賀線が見えた。足元に「前田のクラッカー」のような丸い小さな草の葉が萌えだす春先には、薄霞む山あいを走る電車を飽かず眺めていた。もちろん電車は一年中走っているが、視界をさえぎる草木が繁る前の、陽気もいいこの時期がトレイン・ウォッチングにはちょうどいいのだ。
谷をはさんで向かいの山の中腹に、ひときわ目立つ建物があった。鎌倉には洋館が多いので、そのひとつだったのかもしれない。当時私はそれを、父が使っていたパーカーのインクの箱に似ていると思っていた。今では作っていない、昔の横須賀線のように上下がブルーブラックで間が白いものだ(あの小粋なデザインをどうしてやめたのだろう)。箱もその建物も私には好ましかった。
今でも春になると、クラッカーと横須賀線とインクの箱という脈絡のないものがふと頭に浮かぶ。あの建物はどこにあるのか、本当にインクの箱に似ているのか、確かめようと歩き回って探したが、見つけることはできずにいる。
(2009年3月・片岡 夏実)
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